僕たちは熱狂を知らない

この国には何かが足りない。
 
まるで伊坂幸太郎の『オーデュボンの祈り』の舞台となる島のようである。そこは日本本国とは断絶した独立した島であり、その島に住む者たちはすで成り立っている自分たちの生活に満たされている。平和があり、秩序がある牧歌的な島。
 
そこに島の外から主人公がやってくる。あるいは、予定外に連れて来られた。島の中である事件が起き、主人公はそれを解決していく。そして、その島には「何かが足りない」ことに気がつく。そしてそれは物語の最後に、はたまた予定外に連れて来られた者によってもたらされる。
 
今、僕たちの住む国では問題が尽きない。東日本大震災の爪痕はまだ如実に残り続け、迅速な解決が求められる。構造的貧困、学力格差、いじめ。取り組まなければならない問題は身近にも山積している。政治的な汚職、腐敗も尽きることはない。
 
だが、わが国は世界的に見れば、経済的に豊かで治安もよく、食事は美味しいし、トイレは清潔であり、文化的成熟度も高い。子供はみな初等・中等教育を受けることができ、識字率は極めて高い。紛争はなく、集団的飢餓もない。
 
国民のほとんどが、34年前に漫画『ドラえもん』で登場した「おこのみボックス」(音楽プレイヤーや、テレビ、ラジオ、カメラなどとして使うことができる魔法の箱)に類似した電子デバイスを所持している。
 
思い切って言うならば、概ねこの国は成熟している。人口の推移傾向もそれを物語る。
 
友人から「外国で暮らすことは考えないのか?」「外国からビジネスを展開するつもりはないのか?」と聴かれたことがあるが、僕は共にこう答えた。
 
それはない。
 
僕はこの国が好きだ。この国の美味しい料理や利便性や平和や、創作される音楽や書物や映画が好きだ。
こういった感情を「愛国心」と呼ぶのであれば(今のご時世、それは中々口にしづらい言葉だが)、僕はそれを喜んで受け入れる。
 
このままでいいじゃないか。
 
平和で経済的に豊かで、インターネット空間にも国民一人一人の個性を表現する場もある。課題は山積みだが、それらを一つ一つ解決していけば、もっと住みやすい国になる。
 
悪くない。
 
しかし、誤解を恐れずに言おう。
 
この国は退屈だ。
 
『オーデュボンの祈り』の主人公と同じように思う。
 
この国には何かが足りない。
 
それは何かずっと考えていた。
 
先人たちが成し遂げた戦後復興、高度経済成長。それらの時代には
「敗戦してボロボロになってしまったこの国を我々は立て直す」
「経済的に成長し、世界に認められるジャパンになる」
というムードがあった。
 
もちろん、戦争はあってはならず、「金が全て」という空気感が本当に人生を豊かにするかについては大いに議論の余地がある。
 
だが、少なくともその頃にあって、今の時代にないものがある。
 
「物語」だ。
 
先人たちが成し遂げてきた集合的偉業のおかげで私たちは豊かさを手に入れ、それと替わるように国民を包括する大きな物語はその寿命を終えた。
 
『ワンピース』という少年漫画がある。
ある日、富、名声、力、この世の全てを手に入れた男、海賊王ゴールド・ロジャー公開処刑されると同時にこう言い放つところから物語は始まる。
 
「俺の財宝か?
欲しけりゃくれてやる
探せ!
この世の全てをそこにおいてきた!」
 
この男の残した「大きすぎる謎」を追い求め、世界中の海賊たちが海賊王の残した財宝「ワンピース」を求め、しのぎを削り合い次なる海賊王を目指す。
 
それによってもたらされたのは「大航海時代」という名の物語の創造である。
 
物語は人々を動かす。
 
成功するか失敗するかはわからない。「資本主義」という物語は成功し、「共産主義」という物語は失敗した。
 
ただ、それらが人々を大きく動かしたことは史実の証明するところである。
カール・マルクスの「全国のプロレタリアートよ、団結せよ」という宣言は、確かに世界中の労働者たちに希望の物語を与えた。
 
僕たちは、次の物語を待っている。
 
今、この国を覆うのは「未来の見えない不安と、明日が見えすぎる絶望」である。それは物語の不在による退屈であると私は見ている。退屈は人をも殺す。それはじわじわとある種の人の精神を蝕み、本来死ななくてもよかった人を殺したりする。退屈は人を下らないことで傷つけ合わせたりする。
 
少し話が極端になってしまった。
 
今、この国に物語は存在しない。
 
だが、それは実に言祝ぐべきことである。「物語がない」とは、「国民総動員で可及的速やかに解決しなければ国が滅びるかもしれない」というカタストロフが存在しないということなのだから。
その状況をもたらすための先人たちの努力を、そしてそれを守り続けている現代に生きる人たちへの感謝を忘れてはならない。
 
第一次産業第二次産業第三次産業問わず、
正社員、契約社員、パート、アルバイト、公務員、専門職、自営業者問わず、
大会社の社長から、初めてアルバイトをする高校生・大学生問わず、
まさに私たちがこの国を守り続けている。
 
未来は、真っ暗なのではない。これから絵が描かれるのを待っているキャンバスのように真っ白なのである。
 
キャンバスは先人たちが作り上げ、僕たち自身が守っている。
 
そして、次にそのキャンバスに物語という新しい絵を描くのは、「ゆとり世代」と呼ばれる我々である。
 
バブル崩壊とともに生まれ、物語も、またそれに伴う熱狂も経験していない僕たちである。
 
「この国はどこに向かっているのですか?」
 
という外国人からの、あるいは中学生からの質問に、あなたはどう答える?
 
これは千載一遇の好機だ。まだ、キャンパスは白いままなのだから。
 
次に絵を描けるのは僕たちだ。
 
僕たちは、熱狂を知らない。